Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

ある明治人の記録

編著:石光真人

【評】

いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して齢すでに八十路を越えたり。

 

父母兄弟姉妹ことごとく地下にありて、余ひとりこの世に残され、語れども答えず、嘆きても慰むるものなし。四季の風月雪花常のごとく訪れ、多摩の流水樹間に輝きて絶えることなきも、非業の最期を遂げられたる祖母、母、姉妹の面影まぶたに浮びて余を招くがごとく、懐かしむがごとく、また老衰孤独の余をあわれむがごとし。


齢十にして人生の悲哀を舐め尽くした男の少年の日の記録。
それは、眼底に消えぬ光景を思い出しながら書かれた魂の記憶。
シバゴロー、人生がドラマティックすぎて、そのまま小説になってしまう類の人間なのだ。
抹殺された歴史があることを教えてれる。
そう、リアルな歴史がここにある。

中級~上級武士階級の暮らしについて少し紹介してくれる。

藩の規律は厳しく躾けられ、寒けれども手を懐にせず、暑けれども扇をとらず、はだぬがず。道は目上にゆずり片寄りて通るべし。門の敷居を踏まず、中央を通るべからず。客あらば奴僕はもちろん、犬猫の類にいたるまで叱ることあるべからず。おくび、くさめ、あくびなどすべからず、退屈のていなすべからずと、きびしく訓練されたり。


父母それぞれに膝に抱かれたときの反応のちがい、
「塾にて孝経四書の素読を授けられたるも、意味を解さぬ棒暗記なればいっこうに興味わかず」、
禿頭の老人に追い越されたときの話など、ちょくちょく笑わせにくる。

明け暮れ父母の膝下にありて、きびしき躾ながら、あたたかき双翼のもとに抱かるる雛のごとく育てられたり。


会津戦争がはじまった。

「今朝のことなり、敵城下に侵入したるも、御身の母をはじめ家人一同退去を肯かず、祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人、いさぎよく自刃されたり。余は乞われて介錯いたし、家に火を放ちて参った。(略)」

これを聞き茫然自失、答うるに声いでず、泣くに涙流れず、眩暈して打ち伏したり。幾刻経たるや知らず、肩叩かれて引きおこさるれば、すでに夜半なり。

 

その後二ヵ月のあいだ、夜となればかならず母、姉妹と一家団欒の夢を見、覚めて愕然たり。

 

余、焼跡に立ちて呆然たり。見まわせば見渡すかぎり郭内の邸ことごとく灰燼瓦礫と化して目をさえぎるものなし。仰げば白亜の鶴ヶ城また砲撃、銃撃の傷痕生々しく、白壁ははげ、瓦崩れ落ちて漸く立ちおる戦傷者に似たり。傷々しく、情けなく、戦いに負けたること胸をうちて涙も湧かず、両脚の力ぬけて瓦礫の山に両手つきて打ち伏したり。

 

男連中は生き残っており、

「よう生きておりしものよ、のう、よう生きておりしものよ。よし・・・・・・よし・・・・・・」
とのみ言いてあとは嗚咽なり。


会津人シバゴローの殉難は終わらない。
氷雪の上を跣足で歩き、犬肉を喰らうまでに落魄。

この境遇が、お家復興を許された寛大なる恩典なりや、生き残れる藩士たち一同、江戸の収容所にありしとき、会津に対する変らざる聖慮の賜物なりと、泣いて悦びしは、このことなりしか。何たることぞ。はばからず申せば、この様はお家復興にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪にほかならず。挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。


会津落城後、飯炊き、下僕となりて浪々、ただひとすじに自ら生活し得る道を求めて、あえぎあえぎ月日を送」っていたシバゴロー、勉学の機をうかがい続け遂に上京、「救いを求めて浪々せるも定住する所を得ず、斗南の荒野よりきたりて、人の世の荒野にさ迷い出たるに似たり」。
恩人の野田豁通に紹介された陸軍幼年学校の試験を受けてみたところ見事合格。

はや三月もまさにすぎんとする末日、うれしきかな! 入校を許可すとの報あり。洋服着用のうえ出頭すべしとのことなり。欣喜雀躍して足の踏むところを知らずとはこのことならん。言葉うわずりて雲上を踏むがごとく、魂ふるえて額に冷汗流る。

 

帰途、野田豁通邸を訪い挨拶す。余の軍服姿を眺め、「ほう!」といいて微笑せり。
「これでよか、これでよか・・・・・・」

 

世話になりたる家を馳せめぐりて、挙手の礼をなす。紺色の派手なるマンテルの裾、四月の風に翻り、桜花また爛漫たり。道往く人、めずらしき少年兵の姿を、とどまりて眺めささやくを意識し、得意満面、嬉しきことかぎりなく、用事もなきに街々を巡り歩き、薄暮にいたりて帰隊す。余の生涯における最良の日というべし。

 

このトレビアンの一言、余を苦しめたる劣等感を吹きとばし、復習しつつくやし涙に濡れて書き物を伏せることもなくなり、この日より勉学楽しみとなりて、前途に曙光を見る心地せり。


西南戦争終結で終了。

「真偽未だ確かならざれども、芋(薩摩)征伐仰せ出されたりと聞く。めでたし、めでたし」

 

この時点でまだ十九歳。
彼はその後も義和団事件の際に大活躍、日露戦争にも従軍し、藩閥の外にありながら陸軍大将にまで栄達。
一九四五年の末、八十七歳で没する。

義和団事件の時の話にも興味が湧いてきた(・ε・)