著者:井筒俊彦
【評】
東洋哲学――その根は深く、歴史は長く、それの地域的拡がりは大きい。さまざまな民族の様々な思想、あるいは思想可能体、が入り組み乱れて、そこにある。
東洋哲学の諸伝統を、時間軸からはずし、それらを範型論的に組み換えることによって、それらすべてを構造的に包みこむ一つの思想連関的空間を、人為的に創り出そうとするのだ。
それが「共時的構造化」。
日本・中国・インド・イスラーム・ヘブライ・ギリシャ、東洋から西洋、
ざぶんと知性の大海に飛込むぞい。
表題の示すとおり、人間意識の様々に異るあり方が「本質」なるものをどのようなものとして捉えるかを、ここでは特に「本質」の実在性・非実在性の問題を中心として考えてみたい。
コトバの意味作用とは、本来的に全然文節のない「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」にいろいろな符牒を付けて事物を作り出し、それらを個々別々のものとして指示するということだ。
縁起的事態が先ず経験的に成立し、その事態が「…の意識」の面に映るとき、意識は語の意味を手がかりとして、そこにAとBという二つの「本質」を分節し出すということである。
意識を超えた意識、意識でない意識をも含めた形で、意識なるものを統合的に構造化しなおそうとする努力を経てはじめて新しい東洋哲学の一部としての意識論が基礎付けられるのであろう。
東洋哲学一般の一大特徴は、認識主体としての意識を表層意識だけの一重構造としないで、深層に向って幾重にも延びる多層構造とし、深層意識のそれらの諸層を体験的に拓きながら、段階ごとに移り変っていく存在風景を追っていくというところにある。
本質肯定・本質否定・元型(根源的イマージュ)の三種類に分け、体系化・図式化を試みる。
プラトン・儒学・宋学、老荘・禅・大乗仏教、イスラーム・易・密教・ユダヤ教神秘主義・シャマニズム・ユング、などがそれぞれの例ぢゃ。
禅の分節構造(Ⅶ)、意識の構造モデル(Ⅸ)、セフィーロ―ト(ⅩⅠ)の図や
「言語アラヤ識」なる概念、諸思想の解説に人類の知的営為の一端に触れえるぞい(・ε・)
知の超大型巨人が一人ではじめた、
人類の叡智の集大成を錬成する、この一大事業は緒についたばかり。
井筒ニキの後を誰か継いでくれよな。