サム・ジーヴァ帝国図書館(Javaさんのお部屋)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

少将滋幹の母

少将滋幹の母 (新潮文庫)
少将滋幹の母 (新潮文庫) [文庫]
著者:谷崎潤一郎
評価:A

平安期の古典に取材した一作。
平中の好色話に始まる物語は、強引に妻を手に入れるDQNの時平、心から妻を消し去ろうと苦悩する老人国経、母への慕情を忘れられないその子滋幹らを登場させながら、雅な筆致で進められてゆき、やがて親子の美しい再会をもって了る。
雅な谷崎を味わいたい人に。

と、時平は一座を見廻して、平中を指さしながら、
「この人は猥談と惚気話が頗る得意なんですが、一席ここでやって貰おうじゃないですか」
「ようよう!」
「謹聴々々!」
と皆が拍手したが、平中は泣き出しそうな顔をして、
「御勘弁を御勘弁を」
と頻りに首を振るのであった
彼は、恋しい人の面影を追うて日夜懊悩している父が、苦しさのあまり救いを仏の道に求めた経路には同情が出来たし、そう云う父を傷ましいとも気の毒とも思わないではいられなかったが、でも、ありていに云うと、父が折角美しい母の印象をそのまま大切に保存しようと努めないで、それをことさら忌まわしい路上の屍骸に擬したりして、腐りただれた醜悪なものと思い込もうとするのには、何か、憤りに似た反抗心の湧き上るのを禁じ得なかったのであった。実際、彼はもう少しで、
「お父さま、お願いです、私の大好きなお母さまを汚さないで下さい」
と、話の途中で幾度か叫びたくなったのを、辛うじて怺えたのであった。
おぼろげな記憶の中にある面影を理想的なものに作り上げて、それを胸奥に秘めて来た滋幹は、いつ迄も母を幼い折に見た姿のままで、思慕していたかったであろう。
(中略)
彼にして見れば、永久に昔の面影を抱きしめて、あの時に聞いたやさしい声音や、甘い薫物の香や、腕の上を撫でて行った筆の穂先の感触や、そう云う様々な回想をなつかしみつつ生きて行く方が、なまじ幻滅の苦杯を嘗めさせられるより、遥かに望ましいことのように思えたでもあろうか。
「お母さま」
と、滋幹はもう一度云った。彼は地上に跪いて、下から母を見上げ、彼女の膝に靠れかかるような姿勢を取った。白い帽子の奥にある母の顔は、花を透かしてくる月あかりに暈されて、可愛く、小さく、円光を背負っているように見えた。四十年前の春の日に、几帳の影で抱かれた時の記憶が、今歴々と蘇生って来、一瞬にして彼は自分が六七歳の幼童になった気がした。彼は夢中で母の手にある山吹の枝を払い除けながら、もっともっと自分の顔を母の顔に近寄せた。そして、その墨染の袖に沁みている春の匂いに、遠い昔の移り香を再び想い起しながら、まるで甘えているように、母の袂で涙をあまたたび押し拭った。