Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

谷崎潤一郎随筆集

著者:谷崎潤一郎 編:篠田一士
評価:A

『陰翳礼讃』目当てにBOOKOFFにて購入。350円と値札が貼ってある。 
谷崎先生の明晰な文章と卓抜な分析に感嘆した。

●「門を評す」

よくわからない。

懶惰の説

東洋人のもつ本質的な「物臭さ」について語る。
遅刻しないとか、ひたすら働くとか、そういったいわゆる日本的な気質が近代以降につくられた概念であると実感する。

ホリーウッドのキネマ・スタアたちの写真を見て、しばしば変な気がすることがある。というのは、彼らの顔を大写しにした肖像を見ると、殆ど一人の例外もなく、悉く歯を露わして笑っている。
(中略)
よく日本の女の児があくたいを吐くときに「いーッ」といって歯を出すが、ちょうどあれと同じである。 
西洋人の「文明的施設」といい、「清潔」といい、「清潔」というのは、あのアメリカ人の歯のようなものではないのであろうか? そういえば私は、あの白い汚れ目のない歯列を見ると、何んとなく西洋便所のタイル張りの床を想い出すのである。

誤解をされては困るが、私は決して怠け者になることを諸君にすすめる次第ではない。が、精力家とか勤勉家とか言われることを鼻にかけ、あるいはそれを自分の方から推し売りする人が多い世の中だから、たまには懶惰の美徳――奥ゆかしさを想起しても害にはなるまいと思うのである。

恋愛および色情

21世紀になった今、西洋の追っかけはもう終わりだ!

「恋愛でなくとも小説または文学になる」というラフカディオ・ハーンの説は、西洋人としては珍しいかも知れないが、われわれ東洋人に取っては別に不思議でも何でもない。われわれは実は「恋愛でも高級な文学になる」ということを、彼らに教えられたようなものである。

何しろ日本と言う国はその中枢部の大部分がこういうべとべとした季候なのであるから、あくどい歓楽にはまことに不向きである。
(中略)
われわれが今日東洋に位しながら世界の一等国の班に列しているのは、すなわちわれわれがあくどい歓楽を貪らなかった所以であるともいえるであろう。
いまから千年近くも前の京都の夜の暗さと静けさはどれほどであったろう。わたしはそこまで考えて来て、「ぬばたまの夜」と言う言葉や、「夜の黒髪」という言葉を思い合わせると、その頃の女というものに附きまとう、或る幽婉な、神秘な感じを、はっきりと読み取ることができる。
(中略)
古えの男は婦人の個性に恋したのでもなく、ある特定の女の容貌美、肉体美に惹きつけられたのでもない。彼らに取っては、月が常に同じ月である如く、「女」も永遠に唯一人の「女」だったであろう。彼らは暗い中で、かすかなる声を聞き、衣の香を嗅ぎ、髪の毛に触れ、なまめかしい肌ざわりを手さぐりで感じ、しかも夜が明ければ何処かへ消えてしまうところのそれらのものを、女だと思っていたであろう。
東洋の夫人は、姿態の美、骨格の美において西洋に劣るけれども、皮膚の美しさ、肌理の細かさにおいては彼らに優っているといわれる。
(中略)
私は実はもう一歩進めて、手ざわりの快感においても、(少なくともわれわれ日本人に取っては、)東洋の女が西洋に優っているといいたい。
(中略)
つまり男の側からいうと、西洋の婦人は抱擁するよりも、より多く見るに適したものであり、東洋の婦人はその反対であるといえる。

●「つゆのあとさき」を読む

永井荷風晩年の作を評す。

●私の見た大阪及び大阪人

関西人および関西弁を関東のそれと比較する。
東京生まれの谷崎が大阪に惹かれていくさまがわかる。

陰翳礼讃

日本人および日本国の最大の理解者たる谷崎先生が陰翳について語る。
その全文をここに書き写したいくらいだが紙幅(体力)の都合により断念する。
日本家屋への憧憬が蘇る。

まあどういう工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。

●いわゆる痴呆の芸術について

COOL JAPANに物申す。
まことにこれ(歌舞伎や文楽)はわれわれが生んだ白痴の児である。因果と白痴ではあるが、器量よしの、愛らしい娘なのである。だから親であるわれわれが可愛がるのはよいけれども、他人に向かって見せびらかすべきではなく、こっそり人のいないところで愛撫するのが本当だと思う。
(中略)
どうか歌舞伎や文楽などは、間違っても「世界的」なんぞになってもらいたくない。

●ふるさと

幼少時の記憶を歩いてたどる。
鏑木清方の絵に味がある。

●文壇昔ばなし

作家同士の関わりが興味深い。

●幼少時代の食べ物の思い出

食べ物に関する限り、関東は関西に完全に征服されてしまった。

●『越前竹人形』を読む

佳作発掘。