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日本の歴史6 武士の登場

日本の歴史 (6) 武士の登場 (中公文庫)

【概要】
著者(監督):竹内理三

関東・東北武士団の成長と社会制度の解体と変化、武士と天皇上皇法皇国司・受領、有力寺社との連衡折衝・複雑な動力学。そういったものが日本の中世を形作っていった。貴族のまめまめしい日記が歴史復元に大活躍する。


【詳細】
<目次>


<メモ>
まず用語を定義しよう。

(いずれもデジタル大辞泉の解説より)

  • 平忠常(の乱):[967~1031]平安中期の武将。高望(たかもち)の曽孫。法名、常安。上総介(かずさのすけ)・武蔵押領使(むさしおうりょうし)を歴任。長元元年(1028)内乱を起こしたが、源頼信の討伐に降伏し、護送上洛の途中美濃で病死。千葉氏・上総氏の祖。
  • 前九年の役:永承6年(1051)から康平5年(1062)にかけて、陸奥(むつ)の豪族安倍頼時とその子貞任(さだとう)・宗任(むねとう)らが起こした反乱を、朝廷が源頼義・義家を派遣して平定させた戦役。後三年の役とともに源氏が東国に勢力を築くきっかけとなった。
  • 後三年の役:永保3~寛治元年(1083~87)に奥羽で起きた戦い。前九年の役後、奥羽に力を伸ばした清原氏の内紛に陸奥守(むつのかみ)として赴任した源義家が介入し、藤原清衡(ふじわらのきよひら)を助けて清原家衡・武衡を滅ぼしたもの。清衡は奥羽の地盤を引き継ぎ、源氏は東国に基盤を築いた。
  • 保元の乱:保元元年(1156)京都に起こった内乱。皇室では皇位継承に関して不満をもつ崇徳上皇後白河天皇とが、摂関家では藤原頼長と忠通とが対立し、崇徳・頼長側は源為義平忠正の軍を招き、後白河・忠通側は源義朝平清盛の軍を招いて交戦したが、崇徳側が敗れ、上皇は讃岐(さぬき)に流された。貴族の無力化と武士の実力を示した事件で、武士の政界進出を促した。
  • 平治の乱:平治元年(1159)京都に起こった内乱。保元の乱後、藤原通憲と結んで勢力を伸ばした平清盛を打倒しようとして、源義朝藤原信頼と結んで挙兵したもの。結局、義朝・信頼は殺され、平氏政権が出現した。
  • 国司律令制で、中央から派遣され、諸国の政務をつかさどった地方官。その役所を国衙(こくが)といい、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官のほか、その下に史生(ししょう)などの職員がある。くにのつかさ。国宰。
  • 受領:《前任者から引き継ぎを受けて事務を執る意》平安中期以降、実際に任国に赴任して政務を執った国司の最上席の者。通例は守(かみ)・権守(ごんのかみ)。時には、介(すけ)をもいう。じゅりょう。ずろう。
  • 荘園:奈良時代から戦国時代にかけて存在した中央貴族や寺社による私的大土地所有の形態。また、その私有地。個人が開墾したり、他人からの寄進により大きくなった。鎌倉末期以後、武士に侵害されて衰え、応仁の乱および太閤検地(たいこうけんち)で消滅。荘。そうえん。
  • 領家:古代末から中世にかけての荘園領主の称。平安中期以後、在地の領主が有力者の保護を得るために名目的に土地を権門勢家に寄進した場合、その寄進を受けたものを本所といい、寄進者を領家という。
  • 公領:朝廷・国衙(こくが)・幕府などの領地。江戸時代には、天領にもいった。
  • 私領:古代・中世、地方官人や有力農民などの個人の所有地。私有地。
  • 院政:院の庁で、上皇または法皇が国政を行っていた政治形態。応徳3年(1086)白河上皇に始まり、天保11年(1840)光格上皇崩御まで断続して行われた。
  • 上皇太上天皇):天皇の譲位後の尊称。太上皇上皇
  • 法皇:仏門に入った太上天皇の呼称。

 

忠常の乱(1028)~壇ノ浦の戦い(1185)までの古代末期の150~200年を描く。

律令国家の有名無実化、公共サービスの崩壊、主要な国政・戦闘プレーヤーの交代、私営田領主・辺境軍事貴族たる東国武士たち新興勢力の台頭に伴うパワーバランスの変動、土地・人間支配の一元化、朝廷・貴族+源家⇒平家⇒源家のように変わる軍事パートナー…けっこう複雑なんだなあ。

本の虫の藤原頼長や藤原信西には共感を覚えたりも。

 

後三年の役

義家を踏み台にして出羽・陸奥の覇権を手に入れた清衡は、源氏を無視して直接摂関家と結んだのである。坂東の武士が奴僕のごとくつきしたがう義家も、都にのぼれば一介の「侍 」にすぎぬことを清衡はかしこくも洞察していたのである。

 

>土地と人間の支配

今日の一般常識からいえば、近代以前の社会では、土地を支配するものはそこの住民をも支配する、土地の支配者は住民の支配者であるというふうに理解されるであろう。しかし、そのようになったのは日本が戦国時代になって大名領国が成立して以後のことで、本来、土地の支配と人間の支配とは別々のものであった。現に薦生牧のばあいでも、栗良種は東大寺の支配をうける東大寺杣でありながら、その私田については東大寺の支配をこばんでいるではないか。日本の中世の歴史は、一般的にいえばこの二元的支配を一元支配に統一しようとする努力の歴史であるといえる

 

「院の周囲には貧しくて政治好きの博士、零落した貴族、氏素姓のはっきりしない策謀家、栄達できない不平家、えたいのしれない僧侶、およそ摂関政治の下積みとなっていた中下級の貴族層がひしめいた」と石母田正氏は述べているが、まことに要領よく院の近臣をえがいている。

 

>源氏イズム

源氏の東国における成功は、こうした所領の開拓とならんで、前九年の役後三年の役を通じて関東平氏を郎等とすることに成功した点にあった。その契機となったのは頼義が平直方の女婿となったことにある

 

源氏が関東に樹立したものは人の支配権であった。関東平氏のほとんどは源氏の郎等となった。源氏が武家の棟梁となる基盤が人の支配を通じて関東にきずかれたのである。

 

荘園領主

武士の人間支配は恩顧と服従の強化によって人格支配を深めるが、荘園領主はもっぱら経済的収奪の強化となる。荘園領主国司から委譲された雑役賦課の権をフルに発揮して、万雑公事と称する多種多様な畠産物、山野の産物、手工的生産物や夫役を徴収するようになる。

 

もはや荘園は貴族の栄華を支えるものではなく、生活そのものの支えとなっていた。

 

院政

院政時代は法理にかかわらない力、つまり政治的な力、宗教的な威力、経済的な力、あらゆる力だけが行動を正当化する時代になりつつあったのである。いままでは武者の世界だけで通用していた武者の力も、こうした力の一つとして舞台に登場できる世の中となりつつあった。律令の法理の権威はくずれ去ろうとしていた。

 

平治の乱

藤原信西を中心とする院政派、二条天皇を軸とする天皇親政派、さらに乱後その実力を自覚しはじめた源平二氏の棟梁の三派が鼎立し、そのうえ院政派内部には院の寵幸をめぐる近臣間の対立があり、武士の棟梁のなかにも源平の対立が進行していた。しかもこれらの各派はいずれも単独では主導権を握るほどの勢力をもたず、その地位をたもつために離合を重ねた。これが後白河天皇上位後の情勢である。

 

まさにこの乱は、その意味では頼長と信西の才と学とをかけての死闘であった。そして頼長の義学が信西実学にもろくも敗北したのである。

 

奥州藤原氏

畿内に匹敵する生産力、日本の貿易を支える金産――藤原氏はそうした土地を支配したのだ。

 

>清盛

『十訓抄』

福原大相国禅門(清盛)は、家来の扱いについてはすぐれた人である。召仕がその場にそぐわぬ苦々しいことをしても、主人のため冗談のつもりでやったことならば、その心を察しておかしくないことでも笑ってやる。間違いをし、物を散らかしたり行儀の悪いことをしても、言うほどのことでもないと荒らい声で叱ることもしない。冬の寒いときは、小侍どもをおのれの夜具の裾の下にねかせ、早朝、かれらがまだ朝寝しておれば、そっと抜け出して思うようにねかせておく。召仕ともよばれぬような末輩どもでも他人の見ている場所では一人前にもてなすので、かれらはたいへんな面目として心にしみて嬉しく思う。このような情をすべてのことに心がけた。人の心を感じさせるとはこういう人のことである」
清盛はこれまで権力をほしいままにした横暴な専制者とののしられてきたが、けっしてそうではなかったことの一端をこの話は伝えている。

⇒有能清盛。「清盛の術策の底には案外な人間性があったのである」。

 

山槐記

「一日中禅門(清盛)は東宮を招いてはなさなかった。東宮はおじいさんにだかれて少しもいやがられず、御指につばをつけて明障子に穴をあけられた。禅門が教えると、教えたとおりまた穴をあけられた。禅門ははらはらと涙を流し、この障子を倉の奥にたいせつにしまっておけと命じた

⇒じじバカの裏には…。

 

>平家

伊勢平氏は、摂関家の引立てで一歩さきに大きくなった源氏をしりぞけるために、白河法皇によってにわかに取り立てられた成上がりものである。武士としての基盤をととのえるひまもなかった。保元・平治の乱の兵力は伊賀・伊勢・備前・備中の西国武士で、正盛・忠盛・清盛三代にわたって西国の受領を歴任しているあいだに郎等化したものである。
ことに瀬戸内海沿岸は東国に比して土地の細分化がすすみ、小名主が多く、海賊を生業として独立性がつよい。平氏との主従的な結びつきも源氏ほど固くはなかった。武士団として大きく成長する条件を欠いていた。

 

律令制にその根拠をおく受領と、武士的な御恩関係に基礎をおく地頭との二要素に立脚したところに、平氏政権の過渡的な性格があった。

 

平氏の真の孤立は、武士の棟梁として平氏に期待を寄せていた階層からも孤立したことであった。その原因は平氏が急速に成り上がったため、武士にふさわしい独自の政治機構をつくることができなかったところにあった。「平清盛平氏政権」の章でみてきたが、平氏は全国支配のために新しい組織がつくれず、従来の国司制度によった。そして全国のなかばにおよぶ受領を一門の手に収めた。これがまず全国の有力者を平氏から離反させる大きな原因となった。

 

治承・寿永の乱

叛乱軍の構成を分析してみると三つの分子に分けられる。その一は寺院大衆である。これは延暦寺園城寺興福寺が代表的なもので、清盛もしばしばこの寺院勢力にはおびやかされた。都びとに悪評を買った福原遷都もこの寺院勢力の脅威をさけるためであった。だがこの勢力は、神や仏の威力によって実力よりも過大な外見を呈していたため、戦乱が実力を主体とするはげしさを加えると、叛乱軍としての比重は減退した。
その二は国人と称する地方の土着豪族である。内乱が全国的規模の様相を示したのはこの国人の蜂起があったからである。かれらは平氏そのものを目標として蜂起したというよりも、平氏が政権の基盤としている古代国家への叛乱であった。だから平氏とは無関係と思われるような思いがけぬ地方にも蜂起して、内乱の全国化をうながした。かれらの蜂起は以仁王の令旨とは関係なく、すでに保元の乱前後から始まっていた。
第三は以仁王の令旨によってうながされた諸国の源氏である。かれらは平氏の全盛のかげに諸国に姿をひそめ、国からは目代、荘園からは領主、すなわち古代国家の権力者の手先に苦しめられていた点では国人に近かった。しかしかれらは以仁王の令旨によって蜂起した点で国人とは異なった。
だから内乱軍のこれら三つの構成分子は、それぞれ相互に連絡も統一もなかった。源氏のあいだでさえ、平氏追討という目標は一つであったが、相互になんら連絡も統一もなかた。むしろ源氏相互のあいだでその主導権を争っていたのである。

 

 

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