Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

マチネの終わりに

マチネの終わりに (文春文庫)

【概要】
著者(監督):平野啓一郎

ハイスぺなアラフォー同士のドラマティックな恋愛物語。心理描写がねちっこいぐらい綿密で、時折ナレーション風に人間存在の真理が語られたりする。そう、三島由紀夫のような感じに。いったん文体に慣れれば、ストーリー自体は若干ベタ感もあるが不思議と吸引力があるので引き込まれていく。

作中の第三者風の語り口の序文に、著者の自信が窺える。

 

彼らの生の軌跡には、華やかさと寂寥とが交互に立ち現れる。歓喜と悲哀とが綱引きをしている。
だからこそ、その魂の呼応には、今時珍しいような――それでいて、今より他の時には決して見出し得なかったような、こう言って良ければ、美しさがある。


【詳細】

 

 <あらすじ、というか引用集>

人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。
変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?

 

『――生きることと引き替えに、現代人は、際限もないうるささに耐えてる。音ばかりじゃない。映像も、匂いも、味も、ひょっとすると、ぬくもりのようなものでさえも。……何もかもが、我先にと五感に殺到してきては、その存在をめいっぱいがなり立てて主張している。……社会はそれでも飽き足らずに、個人の時間感覚を破裂させてでも、更にもっとと詰め込んでくる。堪ったもんじゃない。……人間の疲労。これは、歴史的な、決定的な変化なんじゃないか? 人類は今後、未来永劫、疲れた存在であり続ける。疲労が、人間を他の動物から区別する特徴になる? 誰もが、機械だの、コンピューターだののテンポに巻き込まれて、五感を喧噪に直接揉みしだかれながら、毎日をフーフー言って生きている。痛ましいほど必死に。そうしてほとんど、死によってしか齎されない完全な静寂。……』
蒔野はそれを、もう何年にも亘って、舞台上で感じてきていた。

 

どちらも、遥かに先走って、ほとんど相手と融け合う寸前にまで昂揚していた自分の言葉に追いつこうとして、しかし、その深刻さにも、様々な愛情の仄めかしにも、いきなり触れることは出来なかった。

 

「わたし、結婚するのよ、もうじき」
「だから、止めに来たんだよ。」
蒔野は、まっすぐに彼女を見つめた。

 

幾つもの感情が、一時に殺到して彼の胸に溢れた。
洋子は、常と変わらず毅然としていたが、その微かに笑みを含んだ眸には、不安の翳りが見えていた。
蒔野は、自分が彼女に強いた愛の代償を、この時、初めて痛感した。それは、フィアンセとの関係を絶たせたというだけでなく、彼女のその美しい性質に、人が噂話の中で失笑しながら触るような一つの疵を負わせたことだった。
しかも洋子は、彼が求めるならば、更に残酷な犠牲でさえ厭わぬような無防備な気色で、まっすぐに立っていた。
蒔野は、自分のために、まるでその存在そのものを差し出して、ただ待っているかのような彼女の佇まいに心を震わせた。彼女はこんなふうに人を愛するのか――こんなふうに自分を、と。そして、時間の中で、その踏み出した一歩のために立ち竦む彼女を、彼は深く内から押し広げられてゆくような幸福とともに抱擁した。

 

ジャリーラが、あの時、あの場所にいたという事実は、思い出を、単に美しいという以上の何かにしていた。洋子がリルケの《ドゥイノの悲歌》を朗読し、続けて彼が《幸福の硬貨》を演奏したあの十分間。――洋子とジャリーラ、そして、自分というその三角形は、彼の中に、深く覗き込み、同時にまた遥かに見上げるような特別な場所を開いていた。

 

洋子との関係は、一つの発見だった。この世界は、自分と同時に、自分の愛する者のためにも存在していなければならない。憤懣や悲哀の対象でさえ、愛に供される媒介の資格を与えられていた。そして彼は、彼女と向かい合っている時だけは、その苦悩の源である喧噪を忘れることが出来た。

 

この世界は、自分で直接体験するよりも、一旦彼に経験され、彼の言葉を通じて齎された方が、一層精彩を放つように感じられた。その少し歪な繊細さも、段々と理解できるようになってきていて、愛おしくもあり、また時にはおかしくもあった。相変わらずね、 と。

 

洋子はそういう、彼と一緒にいる時の自分に、人生でこれまでに知らなかった類の愛着を感じていた。自分は、こんなふうに生きられるのだと教えられた気がした。それは、他の誰と、どんな場所にいた時の自分よりも心地良く、部屋に一人でいる時でさえ、彼がすぐ側にいることを考えて、ただその自分でいたかった。
彼を失うということは、つまりは、そういう自分を、これからはもう生きることが出来ないということだった。ただ思い出の中でだけしか。――そして、その「穴が空いたような」心の空白に、今は止め処もなく寂しさが染み出している。

 

 

その時に彼が思うのは、ただ一つのことだった。洋子ともう一度会って、心ゆくまで話がしたかった。

 

総集編。

洋子は目を閉じ、彼の《アランフェス協奏曲》の演奏を、サントリーホールで聴いた五年半前の記憶を脳裏に蘇らせた。あの夜、二人で交わした会話と微笑み。別れ際にタクシーの窓越しに見つめ合った、名残を惜しむような目。 …それから、パリで彼から愛の告白をされた日のこと、リチャードとの結婚生活、イラクで目にした自爆テロ犯、蒔野とのスカイプでの会話、パリの空港からかかってきたジャリーラからの電話、東京のホテルで一人横たわるベッドから眺めた豪雨の夜空、ケンの出産、早苗との対面、長崎で車を運転しながら喋っていた母の横顔、サンタ・モニカで自分を抱きしめてくれた父、……様々な記憶が、時間の前後を問わず、次々と断片的に脳裏を過った。
蒔野と自分との間に流れた時間の記憶が、彼女の胸を締めつけた。
洋子は、閉じ合わされた瞼の隙間に涙が満ちてゆくのを感じ、眉間を震わせながらそれを堪えた。そして、『――なぜなのかしら?』と、無意識にまた問うた。なぜ自分は、彼と別々の人生を歩むことになってしまったのだろうか?……

 

<金言シリーズ>

なるほど、恋の効能は、人を謙虚にさせることだった。年齢とともに人が恋愛から遠ざかってしまうのは、愛したいという情熱の枯渇より、愛されるために自分に何が欠けているのかという、十代の頃ならば誰もが知っているあの澄んだ自意識の煩悶を鈍化させてしまうからである。
美しくないから、快活でないから、自分は愛されないのだという孤独を、仕事や趣味といった取柄は、そんなことはないと簡単に慰めてしまう。
そうして人は、ただ、あの人に愛されるために美しくありたい、快活でありたいと切々と夢見ることを忘れてしまう。しかし、あの人に値する存在でありたいと願わないとするなら、恋とは一体、何だろうか?

 

人に決断を促すのは、明るい未来への積極的な夢であるより、遥かにむしろ、何もしないで現状に留まり続けることの不安だった。

 

幸福とは、日々経験されるこの世界の表面に、それについて語るべき相手の顔が、くっきりと示されることだった。
忍耐には大抵、損得勘定が伴うものだが、人より多くの我慢を強いられているという意識の身を焼くような煩悶にとって、他方で、人が当然に守っている禁止をこっそり破っているという疼しさは、一服の清涼剤となった。

 

自由意志というのは、未来に対してはなくてはならない希望だ。自分には、何かが出来るはずだと、人間は信じる必要がある。そうだね? しかし洋子、だからこそ、過去に対しては悔恨となる。何か出来たはずではなかったか、と。運命論の方が、慰めになることもある。

 

<メモ>

  • 3回しか会ってないが意外とプラトニックなまま終わっている。いいと思います。これからのふたりがどうなるか気になる。三谷さんとこれから暮らすのはきついやろなあ~。子供どうすんのかな。
  • 一文が長めで、心理描写がねちっこいぐらい綿密。若干芝居がかっていてキザなくらい。しかしそこがいい。耽美的ですらあり、言い回しにはどこか三島由紀夫感すらある。と思っていたら作者自らその影響を認めている。平野啓一郎の『日蝕』も読んでみたい。

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  • イラク戦争東日本大震災など、現実の出来事も差し挟みながら進むストーリー。ハイスぺなところと三谷さんの陰謀関連がややリアリティを欠くので、そことバランスを取っているのだろうか? しかし三谷さんの暗躍に変な声出たね~。
  • 映画も今秋11月にやるみたいよ。洋子さんの顔は滝川クリステルみたいな濃ゆい顔かと思ったら石田ゆり子みたいよ。リチャードもハーフになっているみたいでちょっと不安かも…。まあたぶん観るけどね。

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<ギター>

こんな感じ?

この弦楽器には郷愁を誘う何かがあるね。

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