Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

痴呆を生きるということ

痴呆を生きるということ (岩波新書)
【概要】
著者(監督):小澤勲

タイトルが危なげなことからもわかるように15年くらい前の本。具体的すぎるほどの実例を挙げながら、自分に近しい人が認知能力の衰えにより、奇行や妄想、理不尽を撒き散らすモンスターに変わる恐怖を描く。「その悲惨を突き抜けて希望に至る道をも見出さねばならない」ということで、喪失感・不能感~受容に寄り添う大切さと難しさ、個々のエピソードは覚えていなくとも感情は蓄積されること、などを教えてくれる。


【詳細】
<メモ>

老不気味 わがははそはが人間以下のえたいの知れぬものとなりゆく

斎藤史

 

彼らの、あるいは彼らとともに生きてきた人たちの、不思議に透明な笑顔と出会うことで、私たち痴呆のケアにあたる者が、逆に励まされ、癒され続けてきた。そのなかで、痴呆を病む人たちのこころが、ようやく、ほんの少し見えてきた。

 

痴呆のケアにあたる者は、痴呆を生きるということの悲惨を見据える眼をもたねばならない。しかし、その悲惨を突き抜けて希望に至る道をも見いださねばならない。

 

javalousty.hatenablog.com

 

 

老いるということは喪失体験を重ねることである。(中略)

しかも、これらの喪失体験は若い人たちと違って、取り返しがつかないことと実感される。客観的にみても、抱え込むことになった病や障害の多くは不可逆的であり、徐々に進行することが多い。そのために彼らの喪失体験は深く、持続する。そして、彼らを危機に導き、ときに混乱と絶望を生む。

 

☞彼らの深層意識は、心身に蓄積される落差を解消しようとして「不可能な現実への強制が可能な非現実によって置換」する傾向があるので、もの盗られ妄想などの周辺症状が発生する。人に身を任せるのが苦手な人はなおさら。

 

妄想に、あるいは攻撃性にどう対応するかではなく、彼らの喪失感、つまり寄る辺ない不安と寂寥にどのように寄り添えるかを、第一に考える。(超略)

受容に至る過程に同道するという姿勢が求められよう。

 

~救いフェイズ~

痴呆を病む人たちは、一つ一つのエピソードは記憶に残っていないらしいのに、そのエピソードにまつわる感情は蓄積されていくように思える。叱責され続けると、そのこと自体は忘れているようでも、自分がどのように扱われているのか、という漠然とした感覚は確実に彼らのものになる。

逆に、せっかく苦労して一緒に行った旅行から帰ってきた直後に、旅行に出たことさえ忘れてしまい、がっかりさせられることがある。だが、そのような心遣いは必ず彼らのこころに届き、蓄積され、彼らを支える。

 

☞言葉は悪いけど、動物といっしょだね。

 ほかにも、耕治人の小説『どんなご縁で』の「小水が清い小川のように映った」などの介護側にの認識の変化や、「あの人はぼけて初めて人間らしくなった」などの被介護側の変化。また、「深い痴呆に陥った老人のふとした瞬間につぶやかれるひとことが、ときに私たちを震撼させる」。

 

最後に肺がんをカミングアウトした著者は本書上梓の5年後に逝去した模様。南無。