Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

場の思想

場の思想

【概要】
著者(監督):清水博

「自己の卵モデル」「三種の場(生活・人生・生死)」を駆使して、21世紀に必要な思考のいちフレームワークを提供する。卵の黄身(自己)を取り巻く白身が織りなす自他非分離的空間(純粋生命)に比重を移し、場の共創を活発におこなわなければ文明の行き詰まりは解消できないと説く。

陽明学正法眼蔵複雑系まで話の幅が広い。ロゴスよりパトス多めに読んだ方がいいかも。 


【詳細】
場の理論

ハイデッガー道元陽明学、西田哲学などの概念を縦横に引きつつ、パラダイムシフトに有効と(言われて久しい)場の理論を提唱する。

  • 場の理論:則非の論理、知行合一、縁起的構築法、茶室、劇場
  • 局在的生命の活き:役者の演技、部分、黄身、頭脳、大脳新皮質、分節化
  • 遍在的生命の活き:舞台の演劇、絶対無の場所、純粋な述語性、白身、肉体、大脳辺縁系、純粋生命、無分節化

私の考え方は生き方と生命の二重性をかつての肉体と精神のように二項対立的にとり扱うのではなく、局在的生命の活きと遍在的生命の活きの相互誘導合致という形式で論じることである。

※相互誘導合致:局在的生命が遍在的生命に包まれるように互いに相手を誘い合いながら、次第に結びつくこと

 

換言すれば、生命の二重存在性とは、「生命は場として存在し、また同時にその場に位置づけられた個物として存在している」ということである。

 

生物という「筐」を科学的方法によって完全に解明しようとしても、その筐における局在的生命の活きがそれが存在している遍在的生命という場の活きと相補的な関係にあるために、場から筐だけを切り取ってきて取り扱う――存在それ自体の活きを問わない――これまでの科学的企画は成功しないのである。

 

 

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<人生劇場>

人生劇場という自己は、さまざまな生活劇場の舞台で演じられた生活ドラマをその内部にとりあえず受け入れ、そしてそれがすでに歴史のなかに編纂されているほかの生活ドラマとどのような関連性をもっているかを調べてその意義を評価し、その結果に応じて歴史のなかに位置づけたり、捨てたりしていく。このようにして自己の歴史ドラマが編成されていくのである。

 

出会いの場では、ともに生きる仲間として人々が絶対的に対等であることが要求される。その結果として「ともに生きている」ことは「ともに活かされている」ことでもあるという自覚をもつ。このともに活されているという自覚がはたらくことによって、異質の背景をもつ人々のあいだで共創が生まれる。

 

<三種類の場>

生活の場、人生の場、生死の場という三種類の場を考えてきたが、それらの場のあいだにはどのような関係が存在しているかを考えてみることにしたい。まず第一に気が付くこととして、生死の場が人生の場を限定し、そしてさらに人生の場が生活の場を限定するというように限定関係に上下が存在している。すなわち、より局在的な場がより遍在的な場の内部に含まれているために、後者の活きのあり方によって前者の活きのあり方がが限定されるという関係にある。人生は局所的生命としての自己の生死を超えて存続することはできない。しかし生死の場という純粋生命の場において生きようとする活きから、人生に目的や使命感が生まれ、そして志が立てられる。(中略)

これら三種のあいだには、これとは別に、より局在的な場の活きがより遍在的な場の活きを限定する(あるいは拡大する)という逆限定の関係、すなわち場に出現した新しい個別的な事象が場全体の境界を限定する(あるいは拡大する)という逆限定の関係が同時的に存在していることに注意しなければならない。

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即興劇モデルによって考えることにすると、このような状況(一瞬の行為に人生のすべてを賭ける=生死の場において行為をする)のもとで、自己の全人生が生活の舞台に現れて文字通り懸命の「演技」がおこなわれる。この演技は、限りなく遍在的な生命の活きに合致していることから、一刻々々に全人生が関与し一刻々々が充実している。この生死の場において人と人とが、互いの全人生を参加させて出会う一期一会のドラマが成立するのである。

 

<構想力>

人類が地上で生き残るためには、部分と全体の調和を回復することが必要である。そのために、文明の転換は必然的である。具体的には、ブロック的構造物をつくる文明から、箱庭的構造物をつくる文明へと転換することが必要である。そのことから考えると、近代西欧で無視されてきた「場」の受容性を認識して、場的構成原理によって文明を構築する方法でしか、二〇世紀の近代文明が生み出した矛盾を乗り越えることはできないのではないのだろうか。ここに場の文化と言われる日本文化の重要な意義がある。

 

このようにまず全体のあり方を想定して構造物をつくっていく能力を、私は「構想力」と呼びたいのである。

 

経済的収益性という秩序に照らして「正しい」という基準によって成立してきた企業が、社会的に「善い」という基準によって成立する企業に起業存立の基盤を変更しなければならないのである。これは合理性から倫理性への基盤変更である。