Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

春の戴冠

春の戴冠〈1〉 (中公文庫)

著者(監督):辻邦生

【概要】

(1)メディチ家の庇護のもと、この世の春を謳歌していたフィオレンツィア。そんな在りし日の街と人々の想い出を老人が手記にて語っていくスタイル。ささやかな冒険や恋、進路の選択――春風駘蕩とした日々に南欧の風が草花の香を添える。緩やかな滅びの臭気を仄かに孕んで。

(2)「饗宴」、騎馬試合(ジオストラ)、「春」の制作、そしてシモネッタの死。フィオレンツィアの春はその極大に達し、滅びの予感が強まりはじめる。美と享楽を競う街にあってひとり内省する主人公。天と地、理想と形相、愛と叡智、内と外、中世と近代――世代や価値観の相剋といったテーマが顕れてくる。

(3)内乱と処刑、法王との対立、戦乱、商圏の衰退。沈み始めた太陽はもう引き上げることはできない。ロレンツォは病を得、父マッテオは息を引き取る。昔日のフィオレンツァはもう還らない。そんな陰鬱な現実と対をなすように、ヴィーナスを誕生させたサンドロ。花が萎れるような緩やかな衰亡を辿りつつ、物語は最終巻へ。

 (4)ジロラモ劇場。大仕事を終えたロレンツォの死、フランス軍のイタリア縦断、少年少女の蛮行、娘の静かな懺悔の手紙―――。著者フェデリゴの語るフィオレンツィアの、サンドロの物語もここに終幕。「ぼくらはのフィオレンツィアの春に人間の宿命のすべてを演技しつくしたのかもしれない」。

 

【詳細】

竹馬の友フェデリゴとサンドロが過した花の都フィオレンツィア。その興亡を描く大河ドラマ。語り手フェデリゴ曰く、

わが友サンドロこそは、花の都とともに生れ、ともに死んだ、都市の申し子であるという思いが消えないからである。あたかも美しいシモネッタや、若々しいジュリアーノが、花の盛りのフィオレンツィアの賑わいを背景に考えずには、決して思い出すことができないように、この都市の盛りと迷いと苦悩とを――その明暗のすべてを――自分の宿命として背負ったのが画家サンドロの生涯だった、と、いまの私には思えてならないのである。

 

フィオレンツィアの街並みや喧噪、光や水や風、人々の交歓、樹々のそよぎと海のさざめき――そんな情景を幾層も折り重ね、フィオレンツィアを紙面に構築していく。なんともいえぬノスタルジアが薫る。読者の眼にフィオレンツィアは確かにあった。

その様子はこんな風に一節を引用するだけで十分だろう。

私には、フィオレンツィアの花の盛りが忘れられぬ。忘れられぬどころか、心について日夜私のなかへ息苦しく立ち現われてくる。あの頃は――私の子供の頃は、フィオレンツィアの都市はどこへ行っても槌音と陽気な笑い声と石だたみを鳴らす車輪の音で満ちていた。毎日、どこかの町角で新しい建物がたち、賑やかな祝宴が張られていた。若い娘たちが美しく着飾って、花飾りギルランダをめぐらした扉口から入っていった。楽しげな音楽がなかから聞えていた。通りすがりの人々にも自由に葡萄酒が振舞われた。子供たちは路地で大人の真似をして腕を組んで踊ったり、裳裾を曳ってゆく貴婦人のあとからついていったりした。

都門からはかたい石だたみの道を鳴らして馬車がひっきりなしに入ってきた。もしその馬車がサン・フレディアーノ門からやってくるとすれば、それはほとんどピサを経由してジェノヴァから送られてきた羊毛の袋を満載していた。御者たちは子供が通りに集まってくると、わざと口笛を鋭く鳴らしたり、革の長い鞭で地面をぴしりと打ったりした。そのたびに私たち子供は声をあげて町角の一方へひとかたまりになって恐怖の叫びをあげるのである。すると御者たちは得意満面でがらがらと私たちの鼻先を走りすぎてゆくのだった。町には乾いた、埃りくさい羊毛の臭いがいつも漂っていたが、とくにこうして馬車が通りすぎたあと、それはことさら濃くむっと流れていた。

 

  • 物語が進むごとに近代のめざめと新旧世代の衝突を感じられる。堅実さと放埓さ、神話・ギリシャ哲学(ヴィーナス・プラトン)と宗教(聖母)、物象と永遠の原型、充足と実存的な恐怖など。
  • 語り手フェデリゴがコメント入れすぎ問題…(もちろんこの回想録が誰かに読まれることがあっての話だが)のように。
  • 重層的に世界を重ね塗りしているということもできようが、なにせ分量が多い。繰り返しが多くてやや飽きるが、退屈しそうになると戦争や刃傷沙汰や死などの騒動が持ち上がる。

 

<登場する絵画(の一部)>

サンドロ・ボッティチェリ-主要作品の解説と画像・壁紙-