Javaさんのお部屋(サム・ジーヴァ帝国図書館)

Javaさんのお部屋です。引っ越しました。詳しくは「はじめに」を読んでね。スマホ版は全体像が見えにくいから、PC版と切り替えながら見てね。

ロシア的人間

ロシア的人間 (中公文庫)

著者(監督):井筒俊彦

【概要】

プーシキンからチェーホフまで、トルストイとドストヱフスキーを峰の絶頂とする19世紀のロシア文学史・思想史を著者一流の詩的文体で描き出す。光と闇、コスモスとカオスなどに着目しているあたりに、著者の言語哲学的視座の萌芽を見る。

 

【詳細】

ロシア文学、ロシア民族>

19世紀のロシア文学は、たんにロシア内部における内的現象ではなくて、まぎれもなく一つの世界的現象である。この文学に触れることによって魂の目を開かれた人々が世界中いたるところにいる。

 

ロシアの自然は際涯を知らぬ。この自然は限界を知らない。(中略)

ロシア人にとって限界は自由の束縛、すなわち悪を意味する。限界があることこそ醜悪なのである。(中略)

この自由への非合理的な愛、この自由への熱狂的な情熱はロシア人に特有のものである。

 

 

しかるにロシアの十字架において、我々は、人々と共に卑しめられ辱められた一個の人間を見る。それは「虐げられた人」としての人間基督だ。「虐げられた人々」の自覚に生きるロシア民族と共に虐げられ、共に苦しみ共に悩む基督の姿だ。そこには民族と基督との間に、他に類のない人間的共感がある。その共感が愛となり、愛はやがて熱烈な信仰になる。

 

 韃靼人の羈絆からは自由になったが、結局人民は今度はそれに代って、教会と緊密に結託した(というよりは教会を完全に呑み込んだ)ツァーリ絶対専制の独裁政治によって圧服されることになった。ツァーリ及び教会は民衆を欺瞞するために、ロシアの世界救済という夢をこれに与えた。民衆は欺瞞に気づかなかった。

 

 

「神聖ロシア」が世界全人類の救主メシアとして世界歴史の中心に現れて行くために、全ては許されるべきである! モスコウ・ロシアの指導者達のこういう政策は、さらでだに異民族の暴政下で次第に瀰漫しはじめていた一般国民の民族主義的趨勢を煽り立て、民族の黙示録的精神をいやが上にも強化して、ついにそれを「ロシアの福音」の信仰にまで極端化した。ロシアこそ来るべき基督再臨の場所であり、ロシアは世界を救う、という考えが起り、それにともなってロシア人の民族意識は著しく昂揚する。人々ははじめて世界歴史におけるロシア民族の使命を自覚し、かつそれを熱狂的に信仰した。

 

プーシキン

従来、世界的な見地から見て四流五流以上の作家を出したことのないロシア文学が、一たび彼が現われて後は、堂々たる第一流作家の連続となる事実を我々はたんなる偶然と考えてすますことできないであろう。

 

外的世界の歓びと内的世界の歓びとは一体であって、二つを区別することはできない。これがプーシキンのリアリズムであり、真に普遍的な精神をもって一切のものに同化し得る「全人」の至芸である。

 

ゴーゴリ

いわば無色透明の光のようなプーシキンに始まるロシア文学が、ゴーゴリまで来るとたちまち濃厚なロシア色にいろどられるのだ。

 

後から後からぞろぞろ出てくる醜い怪物たちを一つ一つ指差しながら、彼は呵々大笑し、風刺嘲笑を浴びせかける。しかしその嘲笑のきっ先は結局彼自身の肉を抉り骨を削るほかはない。

 

<トゥルゲーネフ>

このプーシキン的抒情性こそ、トゥルゲーネフの文学の本質的精神であり、かつそれの最大の魅惑である。そして、ただそれのみが、トゥルゲーネフに、世界文学における不動の地位を保証する。

 

あの凄まじいトルストイ叙事詩的精神の奔流や、灼熱するドストイェフスキーの劇的天才の傍らにトゥルゲーネフを並べて立てて見るとき、常に一抹の哀愁をたたえたこの人の抒情的雰囲気が何と懐かしく、そしてまた何と冷徹な美に輝いて見えてくることだろう。

 

トルストイ&ドストイェフスキー>

19世紀ロシア文学は、トルストイとドストイェフスキーに至って、峰の絶頂に達する。そしてそれと同時に、プーシキンに始まるロシアの人間探求もまた窮極の高みに到達する。実際、この二人の文学こそ、ロシア精神が、いまだかつてひとに見せたことのない自己の深奥の秘密を、大胆にも世界の面前にあばき出して見せた告白であり、かつはまた、人間というこの宇宙の謎に関してロシアが吐き得た最高の、そして恐らくは最後の、言葉なのである。

 

だがこれほど互いに性質を異にし、何から何まで正反対な二人の天才が、それぞれ全く別の途をとりながら、結局は同じ一つの「生ける神」を求めたのだった。そしてこの「往ける神」の探求のために、二人は共に荊棘の路、先人未踏の苦難の路をただひとり行く。それは雄大な、悲壮な光景だ。人は何のためにこの世に生れてきたのか、人生は果してこれほどの苦悩の犠牲においてまで生き通されなければならないのか――この古くて新しい実存の難問を真に切実な主体的な問題として抱いている人は、はげしい感動を覚えることなしにトルストイとドストイェフスキーに近づくことはできない。

 

<チェホフ>

19世紀文学はプーシキンに始まってチェホフに終る。透明な叡智の結晶体のようなプーシキン的芸術に始まって、一世紀の間荒れに荒れ、乱れに乱れた揚句、また始めとそっくり同じ冷たい硬い叡智の静けさにもどってしまう。

 

 

言語哲学的視座の萌芽>

著者の「学問以前」を感じさせる。

  • 「ロシア的現象なるものの特徴をなす混沌はことごとく、人間存在の奥底にひそむただ一つの根源から湧き起って来る。ただし、その根源そのものもまた一つの混沌なのだが」
  • 「今まで硬い美しい結晶面をなしていた実在世界の表面が、みるみるうちに溶け出して、やがて、あちこちにぱっくり口を開けた恐ろしい亀裂から、暗い深淵が露出してくる」
  • 「これこそ東西の別なく古来、神秘道の修行者達が最高の境地として希求し、それの体得のために一生を賭して努力する「永遠の今」の体験でなくて何だろう」
  • 「実存の深層にひそむ道の次元を開示して見せた」

 

<テヘぺロ>

1988年、1953の自分へ。

今ならとても口にしないような、よくこんなことを言ったものだと思うような、言葉を平気で喋り立てている。気恥かしい、そら恐ろしい、それでいて楽しくないこともない。

 

ただロシア語を学び、始めてロシア文学に触れた感激を、ひたすら文字に写しとめようと夢中になっていた。ただそれだけに、私個人にとっては、実になつかしい青春の日々の記録ではある。

 

<ちなみに>

ちなみに表紙は、カンディンスキー「風景の中のロシアの美女」。